田無とひばりの関わり
-
ひばりの野原
かつて野原が田無、保谷に渡って広がっていた。田無の北原、西原と保谷の古地名である中原、南原に渡る地域である。
この野原はヒバリが多かった。
明治以降、青梅街道と所沢街道が分岐する田無の追分から西に、青梅街道と所沢街道に挟まれ帯状に広がる地域には竹林が多くなった。この竹林にもヒバリがおり、いい声で鳴くヒバリが多かった。
それを捕まえ、鳥籠にいれて鳴き競べをして楽しんだ。それを「トリサシ」と呼んだ。旧家には、今もその鳥籠が、蔵や軒下に残されている。
-
「ひばりの名所」として宣伝される
昭和5年「東京近郊・日がえり行楽地」という本に、竹林のヒバリのことが「竹の花ひばり」として紹介された。
都会からの日帰り旅行者が増えたという。
-
地名に見るひばり
明治初期、ヒバリに関連した字(あざ)名はなかった。
-
新地名「ひばりヶ丘団地」
公団・ひばりヶ丘団地が造成され、団地の地区は「ひばりヶ丘団地」という地名になった。
ひばりヶ丘団地の命名は、かつてヒバリが多かったことや「竹の花ひばり」の話に由来しているようだ。
久留米も田無同様、団地の地区は「ひばりヶ丘団地」という地名になった。
保谷のみ「ひばりヶ丘」という町名を団地とその周辺に採用している。
-
駅名「ひばりヶ丘」
ひばりヶ丘の駅は「田無町」という名前だった。
現駅名に変更されたのは昭和34年。ひばりヶ丘団地の造成と同時である。
参考文献
-
「多摩の歴史T」武蔵野郷土史刊行会、S50、明文社
-
「田無市史」 第二巻、第四巻
-
「多摩近現代史年表 [多摩歴史叢書1]」松岡喬一編著、H5.12.1、たましん地域文化財団